「ベネズエラを中心とするラテンアメリカの政治経済研究」に対して
坂口安紀氏は、南米ベネズエラの政治経済を専門とする地域研究の専門家である。坂口安紀氏は、勤務先のアジア経済研究所において入所した1990年より、一貫してベネズエラの政治経済変動について実証的な研究を積み重ねてきた。坂口氏が現れるまで、日本にはベネズエラの政治経済を専門とする研究者が存在しなかった。いわば、坂口氏は日本における現代ベネズエラ研究の開拓者であり、過去30年にわたり、同国に関する我が国の議論の先頭に立ち牽引してきた実績を持つ。
坂口氏がベネズエラ研究を時間的な流れでまとめるとすれば、大きく二つの時期に分けられる。まず、研究者としてのキャリアを始めた1990年代の研究である。この時期のベネズエラでは、1950年代末以降、長期にわたり安定的に継続してきた二大政党制に支えられた民主主義政治が大きく揺らぐ。「21世紀の社会主義」を唱えることになる急進左派のウゴ・チャベスが1999年に大統領に就任すると、権威主義化の歩みが始まる。この頃、坂口氏は、ベネズエラが石油輸出国機構(OPEC)の一員でもあることから、その石油産業の動向や実態について分析を行い、その知見を礎に他の産油国との比較研究を開始した。国家と企業、中央と地方、という二つの関係性を軸とした成果は、編著『途上国石油産業の政治経済分析』にまとめられている。そこでの比較の対象は、ラテンアメリカ域内のエクアドルの他、ロシア、中国、インドネシア、ナイジェリアを含むなど、ユーラシアならびにアフリカ地域まで視野に収めるグローバルな研究に仕立てあげている。
そうした地域間比較研究を受け、坂口氏が次なるテーマとして選んだのは、世界経済の動向に合わせて変動するベネズエラ経済、そしてチャベスの下で権威主義化が進む政治、さらにはその間の相互作用であった。二度にわたる長期の在外研究を含む継続的なフィールドワークによる成果を踏まえた実証的な分析としてまとめ、現地における状況の展開に合わせて、成果を継続的に公にしてきた点も地域研究の模範といえよう。
とくに、チャベス登場後のベネズエラは、今世紀に入ると、不安定な社会状況に陥る。チャベス政権の支持、不支持という国論を揺るがす極端な分断が生まれ、これが、政治や社会一般に限らず、学問の世界、さらには一般家庭の親族レベルまで重くのしかかり、深い亀裂をもたらした。対立が固定化し長引く中で、その影響はベネズエラという一国の枠組みを超えて、他国のベネズエラ関係者、ラテンアメリカ関係者の間にも影響してきた。
日本においても、ベネズエラに関する研究や報道においては、しばしばシニア世代の研究者を中心に、アメリカ合衆国の覇権に対する反発の立場から、チャベス政権に心情的に肩入れする傾向が認められ、権威主義的な傾向を強めたチャベスとその後継者について厳しい評価を下す坂口氏が孤高に自らの主張を披露する場面も少なからずあった。そのような厳しい現実を身近に感じるようになっても、対立する見解をふくむ様々なデータや情報を可能な限り収集し、またベネズエラ政府による統計が公表されていない事項については、公平性をつねに念頭に置くデータ収集に努め、説得性の高い議論を展開してきた。実証的な学術研究の成果に依拠したゆるぎない姿勢を決して崩すことがなかったことは賞賛に値する。
こうした坂口氏の研究は、現地における情勢の展開状況に呼応する形で発表された20編を超える雑誌論文ならびに2冊の編著『2012年ベネズエラ大統領選挙と地方選挙:今後の展望』、『チャベス政権下のベネズエラ』に結実している。
その集大成として出版した『ベネズエラ:溶解する民主主義、破綻する経済』は、チャベス政権とその後のベネズエラを主題に、政治、経済のみならず、社会開発、歴史・思想、石油産業、国際関係までも論じた包括的な現代ベネズエラ論である。一般読者をも意識した書きぶりながら、論拠を提示したうえで首尾一貫した議論と分析を行っており、学術水準が十分に担保されている。そのためベネズエラ研究の第一人者による本格的な研究分析としてばかりでなく、進歩主義的とみなされる研究者からも「様々なデータにもとづく説得的な分析」と評価され、現在では現代ベネズエラ研究のスタンダードワークとなっている。
本年5月末にブラジルで開催された南米諸国首脳会議でも、主要な議題の一つがベネズエラ問題であった。チャベスの後継者であるマドゥロによる社会への抑圧と人権侵害から多くの難民が生まれ、ラテンアメリカ各国は、ベネズエラ移民の扱いに苦慮している。ベネズエラ問題が、一国の問題にとどまることなく、ラテンアメリカという広大な地域における政治経済問題に発展しその行方に大きな影響を及ぼしている現在、坂口氏の研究が持つ意義はますます高まってきているといえよう。
以上のように、坂口氏が進めてきたベネズエラに関する実証的な研究レベルの高さ、そして広く一般社会への波及効果を考えたとき、その学問的功績は極めて顕著であり、今後の研究の発展が期待できる。よって、選考委員会は一致して大同生命地域研究奨励賞を授与することを決定した。
(大同生命地域研究賞 選考委員会)